人類の歴史の中では、文字を持たない文化と持つ文化が存在する。
言葉を物質的視覚的に残したい人々は、とても文字そのものを大切に扱ってきた。
文字を持たない文化の中では、言葉や音をとても重んじている。
言葉を文字で残す。
言葉を音で残す。
どちらにせよ、人間から発せられたものを、残し伝えようとしてきた。
大切に扱ってきたのだ。
この間、ネットで面白い動画を見た。
聖書は神聖なもので、かつては教会にしか存在せず、見たかったら教会まで足を運ばなければならなかったらしい。
そして教会にしかないから不便だと、小型化して写本を作った人がいた。
人々は喜ぶどころか、神聖なものをそんなふうに持ち歩くなど言語道断と炎上したそうだ。
そう、言葉は文字でも音でも、かつては神聖なものだった。
ふと思う。
私は、私たち現代人は、言葉を大切に扱っているのだろうか。
言霊という言葉がある。
「言霊とは、言葉が持つとされる霊力」(Wikipediaより)
どんなことでも、言葉というのは発せられたら振動に乗ってどこかに届く。
人に向かって話した場合、その「思い」を含んだ言葉を受けた人は何かしら反応する。
反応した人はそれに思いが生まれる。
この思いは、一人一人違う時もあれば、みんな同じような感動を味わっていたりする。
受け手の反応を感じて、話し手にも新たな「思い」が生まれる。
これが言霊の正体なのではないか。
で、話を戻すと、言霊という言葉があるほど、かつて人々は言葉の扱い方を
文字にせよ、音にせよ、大切にしてきた。
大切なことほど覚えにくいし、書きにくいし、残すには努力が必要だった。
現代は簡単に文字が打てるし書けるし写せる。
音もいくらでも好きなように録音し、制作し、再生し、消去することができる。
そもそも言葉は言語を話す我々にとってはコミュケーションツールだ。
コミュニケーションツールの言葉が、大量生産大量廃棄できるとしたら、
残そうとする熱量は薄くなるのだろうか。
中身のない薄っぺらいもの、残す必要のないものもたくさん溢れている。
これが現代の言語文化やコミュニケーションの混乱の基となっている。
もちろん言葉や文字を大切にしている人もたくさんいる。
民族や宗教や伝統を重んじる人々は特にそうかもしれない。
歴史あるものを残そうとしている文化や宗教もある。
そういったものは厳しいルールや作法があり、大衆化しづらいものだ。
最近、片付けコンサルタントの近藤麻理恵さんの「ときめき」という言葉にしっくりきている。
「ときめき」という言葉や響きにときめいているのだ。
本当にときめきは一瞬にして思考を変える。
もしよかったらぜひこのメソッドも読んでいただきたい。哲学だ。
言葉をもう少しときめくように使ってみる、と考えると、何かが変わる気がする。
捨てるものより残すものの輪郭がよりはっきり見えるかもしれない。
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